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葬儀Q&A

■仏壇

仏壇(ぶつだん)とは、一般家屋の中に常設された、仏を祀る厨子であり、
家族の死者を祭る、祭壇でもある。
内部は仏教各宗派の本山寺院の仏堂を模した豪華な作りになっており、
仏像や位牌を納める。
大きく分類する場合は、金仏壇・唐木仏壇・家具調仏壇に分けられる。
広義には、仏を祀る壇全般を指し、寺院の仏堂において仏像を安置する壇(須弥壇)も含まれるが、現代日本語で「仏壇」と言えば、通常上記のように家庭内に安置するものを指す。
広義の仏壇と特に区別するため、仏壇のことを「御内仏(おないぶつ)」とも言う。

起源 

仏壇の起源については「持佛堂(ぢぶつどう)→仏壇説」と「魂棚(たまだな)→仏壇説」の2説ある。古代インドでは、土を積み上げて「壇」を作り、そこを神聖な場所として「神」を祀っていた。やがて風雨をしのぐ為に土壇の上に屋根が設けられた。これが寺院の原型である。それを受け継ぎ仏壇の「壇」は土偏である。白鳳14年(西暦685年)3月27日、天武天皇が「諸國家毎に佛舎(ほとけのみや)を作り、即ち佛像と経とを置きて礼拝供養せよ」との詔を出した。それにちなみ全日本宗教用具協同組合では毎月27日を「仏壇の日」に制定している。玉虫厨子は現在に伝わる最古の仏壇と言われる。ただし、この詔は現在の仏壇の直接の起源ではない。

持佛堂(ぢぶつどう)→仏壇説 
貴族などの上流階級においては、持仏堂を持つものもあった。藤原頼通の平等院鳳凰堂や足利義満の鹿苑寺などがある。また『更級日記』の作者、菅原孝標女が薬師仏を等身に造って屋敷内で祀ったというのも仏壇の源流である。竹田聴洲によると、上記のような持佛堂が縮小・矮小化し屋内に取り込まれることによって仏間を経て仏壇に変化したとしている。
室町時代、浄土真宗中興の祖である本願寺八世・蓮如が布教の際に「南无阿弥陀仏」と書いた掛軸を信徒に授け、仏壇に祀ることを奨励した。仏壇を作る際に本山を真似たところから、現在の金仏壇の元となる。それゆえ、浄土真宗では仏壇に対しての決まりごとが多い。なお、現在でも浄土真宗において、仏壇の本尊は掛軸であり、菩提寺を通して本山から取り寄せたものとされる。
なお、仏壇は日本独自のもので、仏教国であるタイなどでも見られない。それは寺院が生活の身近にあり、家の中に改めて小さな寺を作る必要がないからであり、供養壇としての流れが加わっているためでもある。モンゴルではゲルの中にチベット仏教の仏壇を設けることがある。
魂棚(たまだな)→仏壇説 [編集]
盆に先祖や新仏の霊を迎える祭壇のことを魂棚(盆棚・水棚ともいう)という。形状は地域・時代によって様々であるが、四隅に竹や木で四本柱を建て板を渡したものや茶卓を使用する場合もある。柳田國男はこの魂棚が盆のみの設置から常設化され仏壇になったとしている。現在、仏壇の起源については竹田のいう「持佛堂→仏壇説」の方が有力視されている。

普及時期 
江戸時代、幕府の宗教政策である寺請制度により、何れかの寺院を菩提寺と定めその檀家になることが義務付けられた。その証として各戸ごとに仏壇を設け、朝・夕礼拝し、先祖の命日には僧侶を招き供養するという習慣が確立した。社会が安定し、庶民の暮らしが豊かになってきたことも背景に、庶民にまで浸透した。また日光東照宮などに見るように、元禄期の社寺建築技術の隆盛が各地に影響を与えた。金仏壇産地の多くは、その頃に宮大工が興したと言われている。この点についても諸説存在し、全国的に仏壇が普及したのはいつ頃であるのか今後の研究が待たれる状況である。

補足 
鎌倉時代に禅宗と共に位牌が持ち込まれると次第に浄土真宗以外の各宗派で用いられるようになり、江戸時代には一般化した。その位牌を置くために位牌壇を作ったり、浄土真宗を真似て仏壇を使用するようになった。その後、浄土真宗の仏壇と区別するために禅宗様が生まれる。そのために他宗では浄土真宗ほど仏壇に対して厳しくない。
なお神道には仏壇にあたる祖霊舎がある。神棚に神を祀り、祖霊舎には先祖を祀る。これは供養壇が神道風に発展したものである。ただし、江戸時代までの神棚には先祖(33回忌を過ぎた霊の集合体)も同時に奉られていた。寺院の住職家族用の仏壇を特に「御内仏」という。小型の寺院という考え方であれば本堂があるので必要がないはずだが、先祖供養の観点から別途用意されることが多い。